昭和41年05月07日 朝の御理解
折角信心してゆくのでございますから、自分自身の心の中に信心の喜びを感じさせて貰う生活、又それを多々ありましても、信心しておりゃおかげ受けられるな、楽だろうなぁと言う位なものは、身に着けて行かなければいけないと思う。信心しておりますといえどもギラギラ光っておると、言った様な感じではなくて、何とはなしにです、信心していれば楽じゃなあ、自分自身も信心さして頂く喜びというものに、浸らして頂というく喜びを感じさして頂いての生活。
神様に委ね神様に任せた生活、それが出来て行かなければ、信心さして頂く値打がないとこう思うですがね。そういう私、そういう家庭、そういう信心生活を求めての信心、只目先のこの事が、おかげ受けらにゃならんからという、そういうおかげだけの信心では、そのおかげ如何にもこの受けたに致しましても、ギラギラ光った偽物の宝石を、いわば偽物のいうなら、アクセサリーを掛けている様な感じのもので、却って嫌らしいものじゃないかと思うんですね。
信心する者はあげな事じゃけん、すかんと信心の無い者から言われる様な事になる。私は嫌いじゃろうと思うですね。だから結局本当なものでなからねばいけないと言う事。昨日の朝の御理解を頂いて、中に私はあの渕上先生の御信心の、同期の金光様のお話を致しましたですね。あの御理解を頂かして頂ながら、今朝朝参りに見えました合楽の中村さん、本当に今朝の御理解を聞いてから、思い付かせて頂いたと言う事なんですよ。何でも椛目の金光様の事を噂に聞いて知っておった。
けれども御造営が出来る様になってあちらに現場の方達、現場に御祈念係と言う様な方達が、毎日お出られてから、時折あちらに食事に行かたりして、そのまぁ話を聞いて導かれ、一遍椛目の金光様に参りなさいという。お参りしたいと思うけれど何々きっかけが無い。そう言う様なそのある日、朝お夢を頂いた。その夢がいうならば椛目にお参りさして貰う切っ掛けの様になって、今日までもう何ヵ月になるでしょうか、毎朝こうして朝の御祈念に参って見える訳です。
段々信心の有難さというものを、金光様の信心というものを分かってきて、昨日の御理解ではないですけれども、もぅこれは、私が一生かけてこの神様を頂かねばならない神様だという風に段々信心が、いうなら有難うなってきよんなさる。そうそういう或朝のお参りの中にです、山をまあ色々頂いておられますけれど、元どこかのお地蔵様か何かに毎月月参りをしよんなさる。その山を下っておるお知らせを頂いておられる。お知らせというか、今から思うと御神夢であたという訳なんです。
その山を下る道すがらに、あの紫色の宝石の指輪を、誰かに頂いた。次にはあのやっぱり紫色の何ちゅうですか、あのアクセサリーのあぁいう首に掛けて居られますね、見事な宝石を、誰かに頂いたお夢を、今から考えますとあの時に、どこどこの地蔵様のお導きを頂いてから、自分は椛目にお参りしたんだと言う感じましたと、いう事を言って居られます。その自分の信仰している何々御地蔵さんのお導きで、椛目の金光様のお導きを頂いたんだ。
そして頂くものは今日私が申します様にね、何とはなしに、これは信心も教えが無い、只拝む参るの御利益専門と言った様な事ではです、そういう私は教えが身に付かなかったら、いわば信心臭くなる。只拝みよる、参りよるだけの事に過ぎぬのだけれども、教えを頂きますから、話を聞いて助かって行くということが、話を聞いて助かって助かって行くことが根幹的な助かりになり、自分の心の上にも安らぎが、喜びがその日常の生活の状態と云うものが変わって来る。それがアクセサリーである。
それが飾りなのだ。信心は。そう言う様なものを、身に付けて行けよということであろう。まぁその中に色々細かいことも色々あったが、大体そう言う様なお届けであった。皆さん、その紫色の紫といえば、皆さんが何時も御理解頂きますように、安心ということなんですよね。宝石の中でも最高のいわば宝物だと私は思うんです。私は信心さして頂くものは、最高の願い最高のものを頂かねばならぬ。又目指さなければならぬものは、心の安らぎである。安心である。
その安心の喜びがです、私共の信心のアクセサリーになっておらねばならぬということ。信心ちゃあいう時でも取り乱さんで済む。信心とはあぁいう時でも喜べる。信心とは有難いものだなぁと、自分を感じられるだけではなくて、人が見ても聞いてもやはり信心頂いておる、信心頂いて居られる人は信心頂いて居られる、家族は何とはなしに違うなあと言う様なもの。それが今の飾りであり、それが私のアクセサリーであると言う様な信心を、皆さん身に付けていかなければ、椛目通いのはな値打ちいと思うです。
おかげだったら何処何処の地蔵様だって、お不動様だってもいいと思うんです。一心を立てれば和賀心に、神がござるから、おかげになるのじゃと言って居られるのです。一心を立てればです、それこそ地蔵様でなくて、不動様でなくても、何々様でいいと思うのです。自分処の村の氏神様だっていいと思うんです。庭に立っている石碑を拝んでもいいのです。一心を立てるとわが心に神がござるからおかげになる。そういう例はいくらもあります。けれども自分の心の中から根本的に助かってゆく。
人が見ても、成程信心とは素晴らしいと言う様な事の為には、やはり生きた教えというものを頂かねばならない。真の信心の道を分からして貰わねばならない。いわゆる真の信心でなからにゃそこは得られない。真の信心の道に居りながらも、真の信心の話を聞かして頂ながらも、それが自分のものになていない、行じていないとするならばいくら経っても同じ事。信心しよりますといったギラギラした、それこそ偽物の宝石を持っている様なことに終ったんでは、神様の名折れにも関わる。
椛目の信心の名折れにもなる。目指すところがそこでなからなければいけないと思うんです。昨日森部の高山さんのお導きで、西という方が参って見えられた。その方は奥さんの里が北野教会で信心して居られます。その方の叔母に当たる方が、佐賀の教会の総代をして居られます。ですからその叔母に若いとき、佐賀の教会にお参りしたことがある時に、金光教とはよか話をしなさるなあと。お説教を聞いてこう思った。そん時に私の心の中に残っておる一言に、こう言う様な佐賀の先代の先生の事らしいですね。
話をなさったとこういう。それがどういう事だったかというと「猫を追うより皿を引け」というお話を頂いた。猫を追うより皿を引け、結局根本的助かりを説かれたんであろうとこう思うんです。
いくら生臭けのここに魚を置いとけば、猫がそれに飛びつかん筈はない。油断すれば飛びつくことは間違い無い。パアッと言って猫を追うよりか皿の方を始末せよと云う事。皿の中の物を何処かキチッと戸棚の中にでも入れよという事。それにお互いが猫ばっかり追っているような事ではなかろうか、という訳の御理解ではなかろうかとはしゃ思うんです。 どうでしょうか皆さん、猫ばっかり追うような事ではなかろうか。
「猫を追うより皿を引け」どうぞその今日も商売繁盛を、大難は小難へ無難にと、災難が無いごとないごとこう追うばっかりでは、本当のおかげではない。災難災難がもし私の上に起きて来るならば、それを潔く受けていこう、その中からおかげを受けていこう、その中から本当に、めぐりのお取り払いを頂いて行こう。根本的な難儀の元であるところのめぐりのお取り払いを先頂いてからだと。と言う様な私は信心が必要じゃないかとこう思うのですよね。
昨日昨夜夜の御祈念に、福岡の文男さんが参ってきました。熊本の方へお商売に参りましたから、御祈念が済んでから、又御飯頂いたり風呂も頂いたりしよりましてから、それから、又信心話色々夜遅く迄信心話さして頂ながらです、信心の有難さと言った様なものを感じない人には、神様が非常にこの奇跡的なおかげ見せて下さる。椛目でももうこの信者は動かない、本当に真の信心を求めて行くであろうと言う様に、神様が目指した信者には奇跡的なおかげは見せなさらん。本当のおかげを見せなさる。
本当の事が分からせて貰える、教導をなさると言った様なお話を致しました。確かにそうです。例えていうならばです、風車は子供が持っとりますね、ですからそれを持って走れば確かに風車は舞うとる。その子供は俺が走ったから風車が舞いよるとこう思う。ところが実はそうではない。実際にここに風があのだ、空気があるのだから動けば回るのである。私共が働いているからあんたどんな食べていっとるとよ、私がしよる、私がやりよるけん、これが回りよるとと言う様な思い方からです。
成程精進もなからねばならぬ、努力もしなければならない、走りもしなければならない。けれどもそれよりかもっと大元の、このおかげの中にあるから、この風車が回っておるんだとという事を信心とは、教えるのですよと。私が走りよりから回りよるのじゃない。そこにお道の信心のあいよかけよの道があるのですよと。ね神様のおかげでこの風車が舞いよる。いいやお前達が一生懸命動くから舞いよるのじゃと、神様と氏子とがです、そういう働きの中からおかげを受けて居る喜びを分からせて貰う。
そういう喜びを分からして貰えれる信心を、神様は教えて下さる。どういう中にあってもおかげを受けておるんだなという喜びをが分かることなんです。教導ということにはそういう動きがある。例えば奇跡的な本当にびっくりする様な、おかげを受けたという事が有難いのじゃない。いうならです、痛い痒いが良くなったのが有難いのじゃない。何時もまめなのが有難いのぞという。そこん処を教えられるのである。そこん処を信心が身に付いて行かねばならない。
同時に難儀の元であるところの、めぐりのお取り払いを頂けて行く喜びを、分からせて貰わねばならない。取り立ててどうと言う事はないのけれど、椛目に十年十五年と信心しておかげを頂いているならば、何とはなしにおかげ受けて、そう言う様なアクセサリー的な信心の美しさと云った様なものがその身にも家にも付いて行くようなおかげをです、お互いが頂いていかねばいけない。そういう意味合ならば、椛目では誰々がそげなおかげを身につけていきよるじゃうか。
頂いていきよるじゃろうか、と言う様な話を色々総務部長の例をとってから、話したり聞いたりしたことでございます。けれどもお互いの信心がどうでも、誰から見られても自分自身に於てもです、心の中に真の宝石にも似たような心の中に、安らぎを喜びを感じさせて頂ける生活、誰から見られても、信心とは良いもんだなあと真実の宝石を身に着けておる素晴らしさの様なおかげをです、身に家に現して行かねばならない、頂いて行かねばならない。ところが私達の場合そりゃお参りしてみなさい。
おかげ頂けるといた何かギラギラした、おかげだけが飾りのようになっておったんでは、本当の事ではないと、私しゃ思う為には、先ず先根本的な助かりを願わして貰う信心。今まで頂いて居るものの中にです、真実のおかげをおかげだと気付かなかったことを、本当におかげだ、右を向いても左を向いても、おかげの中にあるんだという信心。そしてそこによし難儀があるとはです、猫を追うより皿を引かせて頂く、根本的なところに心を向けさして貰う信心。そういう信心を身につけていきたいと思うですね。
どうぞ。